titllelogo-3
top460-3

アメリカからペルーへ


#2 独特の集団を形成/人種(アメリカの現実2)



 「人種のるつぼ」(Melting pot)という言葉があって、いろいろな人種を壷で溶かしてしまうこと、つまり人種の混交を意味しておりアメリカを評する常識的な表現の一つになっているが、それを文字通りに受け取っていいのだろうか。確かに、他の諸国家に比較すると、「るつぼ」という言い方は妥当するように思われるが、それはあくまでも比較した時のことであって、それぞれの人種が特性を残すことなく溶け去ってしまったわけではあるまい。私の印象では、「るつぼ」ということばは、条件付きで使われるべきだと思う。

 人類学的な関心を持って調査したわけではなく、資料あさりをやったわけでもないので、あるいは誤解があるかもしれない。新聞やテレビを通して、人種の存在様式が政治問題化したのを知ることによって、やっと問題のありかがわかる程度の知識しかないのだけれども、私自身は、これまでの自分の常識を変えなければならないと考えている。

 アメリカにおける人種は、単にその人種的特性を維持しているというだけでなく、人種的集団が社会的集団として存在していることに興味を引かれる。だから、人種問題は、ときに階級対立の問題として現れたりすることがある。いま、それには触れないとして、私の滞在期間中にマスコミで報道された簡単な事実を元にして、「るつぼ」を考えたい。

 人種と言えばまず黒人が浮かぶ。彼らが、人種的に独自の集団を守っていることは、(あるいは守らされていることは)異論の無いことで、その人種集団に基礎を置いた様々な活動を営んでいる。もっとも、黒人問題を人種問題としてだけ理解しようとすると、大きな誤ちを犯すことになる。しかし、アメリカにおける一つの人種集団を形成していることは、認められるだろう。

 黒人と同様に、社会の底辺でおもに肉体労働に従事している集団に、メキシカンがいる。スペイン語を話すラテン・アメリカ人ということで、スパニッシュという呼び名で総称されることもあるが、彼等も政治の舞台に浮上してきた。急進的なグループは、ブラウン・パワーという名で自分たちの特質を表現している。メキシカンが、九月に持ったロサンゼルスのデモは「暴動」にまで発展し、メキシカンの著名なジャーナリストが警官に射殺される事件を引き起こした。彼等は、ロサンゼルスを中心にしているが、英語も非常にヘタで、むしろ普通はスペイン語を使っているようだ。

 白人でも独自の集団を、いろいろな方法で形成している。例えば、イタリア人の団体は、ニューヨーク周辺に住んでいる肉体労働者を主にして、これも特異である。彼等は、黒人に駆逐される以前はハーレム(ニューヨークのスラム街)に居住していたらしく、白人としては珍しい歴史を持っている。ギャング団のマフィアがイタリア系移民で組織されていることや「バンク・オブ・アメリカ」の前進が、イタリア移民の銀行であったことなどは、よく知られていることである。六月に、イタリア系の人々による集会がニューヨークで催され、イタリア系に対する「
FBI」の不当な取り扱いに抗議する声が出された。演説者の激越な調子もさることながら、参加者が右手のこぶしを高く上げて怒りのゼスチュアを示しているのをテレビで見て、白人も例外ではないことを知った。

 ユダヤ人がまた特殊である。彼等を人種的集団とみなすのは疑問のあるところだが、あたかも人種的集団であるかのような気にさせる場合が多い。ソ連におけるユダヤ人差別がマスコミで伝えられた九月に、彼等は「ジュー・ミリタント」(ユダヤ軍団)を組織して、アメリカ政府の沈黙に抗議する意味で、フィラデルフィアからワシントンまでの行軍を行なった。その軍服姿を目にした人は、異様な感じに打たれたであろう。

 東洋系の人々、たとえば日本人や中国人は、ほとんど人種のワクを取りはずしてはいないように思える。ロサンゼルスには、日系二世、三世だけがたむろしているボーリング場があるし、最近イエロー・パンサーを作ったり、ロスの東洋系二世たちのように、独自の新聞を発行したり、抗議デモを展開したりしているのを見ていると、近年になって、かえって人種の主張を強くしているような気がしている。「東洋人としてのベトナム戦争への観点」などという文章(identity)の問題が表面化しているのではないか、と予想させる。東洋系の移民が二世、三世になると、国家と自己とのアイデンティティの問題が深くなってくると思われるのである。

 結局、人種は、この国では部分的に混交し、他は人種集団として残存していると見るべきだろう。「るつぼ」は、そういう状況を頭に入れたうえで言われなければならない。これ等の集団が、文化集団としての国家に統合されていく過程を調べるのも、面白いかもしれない。文化の母体が、少なくともこれまでの歴史では民族であるとして、民族が一般的には人種を基礎にして構成されているとすれば、アメリカ文化というものと人種とはいかなる関係にあるのか、あるいは、これは全くの愚問であるのか私にはわからない。
inserted by FC2 system