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アメリカからペルーへ


#10 バリヤーダの人々3/リマ



 オティボ家の主人ラウルは、物静かな人で、職業は大工だが、レンガ積みが得意である。バリヤーダの多くの人が、長期間の安定した仕事を得られないのに比べると、不特定の仕事を転々とすることもなく、腕もいいので割合に収入もあり、家庭にも恵まれている。しかし、もっと金の入る仕事が欲しいのは他のバリヤーダの住民と同じで、早く中流社会の生活を送れるようになることが、リマ到着以来の夢だ。

 リマで仕事が少ないのは、ペルーが産業発展のうえで著しく遅れているからであって、それは、リマの市街地にも郊外にも、工場らしいものが数えるほどしかないことでも判断出来るだろう。この国の歴史は、資本主義の順調な発展が内外の要因で妨げられて来たことを明らかに示している。原料輸出や製品輸入を軸にした商業活動の中から、大商人が生まれてくることはあっても、あるいは、大土地所有制から大地主が現われても、ついに資本家と呼べる者は登場してこなかった。だから、バリヤーダの人々を吸収していくべき第二次産業は、いまのところ明治維新前の日本の状態に近いと言えるかもしれない。市街地の歩道にあふれた立ち売り宝くじ売り、新聞売りを見ていると、バリヤーダ住民が安定した仕事につけるのは、まだ遠い先のことだろうと想像される。

 16世紀のスペイン侵入と同時にインカ帝国が崩壊し、その後に出現したのは、スペイン同様の封建的、中世的体制であって、それはスペインによる金銀の容易な略奪を可能にするものであったから、改められるはずもなかった。新しい時代を背負う力を持たない当時のスペインによる植民地支配は、産業革命に伴う工業の発展をペルーにもたらすはずはなかったのである。

 1821年のペルー独立も、わずかに成長しかけた資本家が、イギリスの大資本に押しつぶされる結果に終わっただけであり、さらに1920年以降は、アメリカ合衆国の経済的植民地として搾取され続けてきた。

 そして現在、政治的独立を手にしたとはいっても、経済的にはまだ一人立ち出来ない状態であるが、二年前のクーデターによって成立した軍事政権にとって、重要な課題は、国内資本の育成であるかもしれない。この方法がもし完全に失敗したとしたら、人民は、新しい方法を自ら試みることになるだろう。

 ラウルの奥さんイルダは、バリヤーダには珍しく気さくな人である。前歯が二本欠けていて、年よりずっと老けて見えるのは惜しいけれど、初対面の私にも、「セビチはお好き?」などと話しかけて、名物のセビチを作ってくれた。刺身のような魚の切身に玉ねぎを入れ、レモンと唐がらしで十分に味をつけたこの料理は、他のペルー料理と同じくピカンテ(からい)であり、鼻を突き抜けるような味がたまらない。

 イルダの明るさも、しかしどこか貧困に圧しつけられた影が残っている。バリヤーダの多くの婦人たちが、シエラ(山岳地帯)から降りてきて大きな問題を抱え、言葉も不自由なことからひたすら自己の内部に閉じこもり、他人とのコミュニケーションすら拒絶していくのに比べると、まだ明るく見えるだけなのだろうか。スペイン語も知らず、インディオ語のケッチュア(Quechua)だけを使って生活していたシエラの婦人には都市の浮浪生活は苦痛に違いなく、一日もの言わず放心したように腰かけている婦人の中には、すべての感性を殺してしまったかと思われる表情さえ浮かべている人もある。彼女たちは、山地農耕文化としてのインカ文化のひとつの特質、つまりそういう表現が許されるならば、「沈黙の文化」(Cultura Del Silencio)に再び浸ることによって、新しく出会った社会と、そこで当面している絶望的な問題に対処しているのであろうか。

 ある日、リマの地下劇場で、ペルーの歴史が直面している現実を描いた「石の上の石」という映画を見たとき、冒頭に流れたペルー詩人セッサル・バエホの詩「黒い死者」が印象的であった。

Hay Golpes en La vida Tah Fuertes;yo nov se
人生には強い打撃の数々がある 私は知らない

 私に上田敏のような能力があれば、うまく訳してみるところだが、この初めの一行が、すでに全体を語っているようでもあり、特に吐き捨てるように、あるいはつぶやくように言う Yo no se(私は知らない)という語の調子は、胸にこたえる。

 人生に起こった数々の打撃と「沈黙」の深さを、バリヤーダの婦人たちは表情で語っている。それをどのように読み取り、どう解決していくのか。

 人のいいイルダが、典型的な家庭の主婦としての生活を送れることで、深刻そうな暗いかげりを見せずにすむのは幸福である。露天市場で汗水流して働かずにいられる彼女も、前歯の二本を早く直すことが出来ると、もっと明るい素敵な笑い顔を見せてくれるに違いない。
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