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アメリカからペルーへ


#11 バリヤーダの人々4/リマ



 ペルーの子供たちは、ひとなつっこい。警戒心よりも好奇心がずっと強いし、適当にていどをわきまえて、他人に接することを知っている最近の日本の子供とは異なって、冷たさがない。オティボ家の三人の子供たちも、私が泊まったその日から、長年の知り合いのように私の側にくっついていた。

 長男のラウルは面白いことに父親と同じ名前で、姓には、オティボ・ヤウヨという具合に、ペルーの習慣で両親の姓がついている。小学校五年生の彼はなかなかの秀才で、母親の自慢息子であり、「勉強は好きか」と聞いたら「クラスで一番だ」と素直に答える気持ちのいい子である。沖縄の学校に転校してもおそらく誰もペルー人とは思わない顔立ちと背格好をしていて、毎日バリヤーダをうろつく私の案内役を引き受けたりタバコを買いに出て夜道に迷い、犬にほえられている私を捜しに来てくれたりして、まるで弟のように思われることもあった。

 ラウルの小学校は、バリヤーダの人々が協力して建造したもでの、もちろん校舎も備品も貧弱であるが、中を歩いていると、戦後間もないころ通った沖縄の茅ぶき校舎と、それに託された親たちの願いを想起させるような学校である。南米的貧困は、そのまま政治的貧困として反映し、行政の貧困となって現われてくるから、乏しい国家収入を政治家や官僚が着服せずに常識的に運用すれば、いくらでも良くなる学校も、教育予算の不足でなおざりにされている。上層階級の利己主義と教育行政の貧しさは、教育に持ち込まれるイデオロギーの問題よりもはるか前の段階で、この国の教育を蝕んでいると言えるだろう。

 一方では、驚くほど高い月謝の私立小学校があるのに、他方では、駐車場に群がる車ふきの少年や、学校も行かない靴みがきの子供たちが町にあふれている。コイケという名のバリヤーダで見せてもらった学校は、ある女性が自分の私宅を使用させているものだが、エステラ(竹のような植物)で囲んだだけの教室には机もなく、教師も、サン・マルコス大学の学生が教師の資格取得に必要な教育実習をやることで、やっと補充されている状態であった。しかし、このような教育施設の改善も都市地区ではなんとかなるだろうが、シエラやセルバでは非常にむずかしいと思われる。

 そういう幾多の欠陥の総合が、異常に高い文盲率となって現われる。1969年の調査では、文盲率は33%であるが、文盲判別が定かではないので、たとえば新聞判読能力のある者が何パーセントなのか、というような具体的な事実を知ることができず、33%という数字の意味することを正確につかむことは不可能だけれども数字の裏の現実は、あるいは私の想像をこえているかもしれない。しかもボリビアはペルーより悪く、エクアドルはさらに悪いというのが南米の実情である。

 1958年から68年までの十年間に、ペルーの小学校六年制、中学校五年制の数は二倍にふえている。だが、同じ期間に中学に入学した41万人の生徒のうち、卒業者はわずか10%の四万余人でしかなく、一年平均にすると、毎年4300人の中学卒業者(日本で言えば高卒)しか出してこなかったわけだ。人口1200万人のペルーは、これでは工業化をはかるのはむずかしい。

 左派政権と評価されている軍事独裁政権が、国家権力を背景にしたうえで、合衆国やヨーロッパ系資本の国有化政策と国内資本の育成をめざし、第二次産業を中心にすえた近代国家への脱皮を強力に推進していくとすれば(私にはそう動いているように思えるのだが)、政府は、現在の教育制度や教育行政を根本的に改革し、近代産業をになっていく大量の技術者と経営者の生産を、真剣に考慮しなければいけないはずである。その結果、ラウルのような気持ちのいい純朴な少年がペルーから消えることになっても、この国はそのコースを歩んでいるように思われてならない。

 長女のレノールは、おさげの似合う小学校二年の女の子である。兄さんや弟と同じく、いつも鼻をたらしているので、右の袖がゴワゴワに堅くなっていて、からかうつもりで指でさわり、恥ずかしそうだがそれでもニコッと笑う。母親のしつけがいいから、私の食事の世話を一生懸命やってくれたのはいいが、おかげでいささか水鼻のついたパンを食べさせられたのには弱った。スペイン語を知らない私のために、レノールは教科書を取り出してきて、初めから終わりまでゆっくり読んでくれて、単語力を大いに増進させてくれた。

 末っ子のホセも一緒に夕暮れどき私たちは近くの砂山に登った。頂上に、大きな十字架を建ててある砂山からは、シウダー・デ・ディオス(神の町)の家並みが一目で見渡せる。200メートルもある砂の斜面を、みんなでころげ下りながら、ふと、「俺はこんなところで何をしているんだ」という思いがかすめたが、久しぶりで子供のように遊ぶうれしさが、たちまち思いを吹き払ってくれた。夕日をあびて変える道すがら日本での再会を小さな友人たちと約束して、そのとき私はなんとなく幸せであった。
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