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アメリカ紀行


america07

#7 ゲットーの夜


 うだるような残暑も、真夜中になるとさすがにしのぎ良くなって、薄汚れて密集したレンガ家の谷間を、涼しい風が吹き抜ける。昼間歩道一面に散らかっていた紙くずは、もう壁ぎわに吹き寄せられているが、時おり足もとにからまる新聞紙や広告のチラシが、乾いた音を立てていく。消え残った貧弱なネオンの下には、酒場からしめ出された酔っぱらいたちがたむろし、ランニングシャツの少年たちがグループで歩きまわっている。娼婦らしい女性たちのかん高い笑い声が電柱の影から響き、露地の奥からののしり合う男たちの声が聞こえてくる。

 壁にもたれて、タバコに火をつける私に、通り過ぎる人々はみんな振り返り、なかには、酒臭い息を吐きかけながら、顔をのぞきこんでいくやつもいる。私が黒人でないことを確かめた幾人かは、フラフラと近づいて来て金をせびる。そういう何人目かの男をあしらっているとき、ジョーがやっと帰って来た。ゲットー
(黒人スラム地域)の町角に私を残して、彼は深夜ひそかに営業している飲み屋を捜しに行ったのだが、どうやらうまくいったらしく、無言で肩をたたいて片目をつぶった。これで三軒目だなと思いながら、後について行った。

 ジョーは、ワシントンで知り合いになった黒人のコックである。腕のほうはよく知らない。私がまもなくワシントンを去ると伝えたとき、ゲットーを案内すると言い出した。表通りしか行ったことのない私の不満を理解していたのだろうし、裏通りに一人でやるのは危険だと考えていたに違いない。

 出かける前に、私たちは大きなナイフを後ろのポケットにしのばせ、なるべくズボンがふくらむように工夫した。ジョーに言わせると、ピストル相手じゃ役に立たないが、けん制の意味だという。

 ゲットーに近づいたとき、この日二回目の注意を受けた。好奇の目でジロジロ見ないこと。

 ピストルを持ったやつが多いから、絶対に争いは避けること、常にそばを離れないこと。ニューヨークのハーレム
(黒人スラム)で、日本人が行方不明になった事件がいくつかあって、スラムにはちかよらないようにという忠告を受けていたが、旅をしていると、恐怖心よりも好奇心が強くなる傾向がある。表通りから裏通りに入りこむと、おそろしく広いゲットーのなかを歩きまわった。二時間近く歩いていたら、ジョーがぶつぶつ言いだした。私も投げかけられる視線につかれていた。彼等の目は、時には敵意に満ちていたのである。

 日も暮れかけたころ、歩き疲れた二人は、手あかに汚れたバーのドアを押した。今夜は酔えないかもしれないという予感がふとかすめた。カウンターの黒人たちの目を意識しながら飲む酒は、ちっとも私を落ち着かせなかったけれども、早く酔ってしまおうと考えて、焼けつくようなバーボンを流し込んだ。飲みながら、ジョーの言葉を思い出していた。「日本人はワシントンでは白人とほとんど同じ意味だ。」

 苦労して見つけた三軒目の飲み屋は、アパートの一室を酒場に改造した狭い部屋で、明らかに違法営業と知られるものである。隅のほうでは、サイコロ賭博の最中で、テーブルをかこんだ数人の客たちのズボンからは、ポケットに入りきれないナイフの柄がのぞいていて、笑わせる。

 私の姿を認めた中年の男がサイコロを振る手をやすめて、たどたどしい日本語で「アナタニホンジン、ワタシコクジン、ホタルノヒカリ、マドノユキ」とどなった。おそらく占領軍の一員だったのだろう。カウンター・パンチをまともに食ったような鼻も面白かったが、私は突然愉快になった。私は歓迎されているのだ。

 もともと陽気な酒である。ジョーも安心したのか大声を出し始めた。それまで、日本人を連れているということが、彼の立場を異常にしていたわけで、きょうは普段よりもよっぽど慎重にふるまっていた。

 お互いに悟られまいとした内心の緊張もすっかり溶け去り、宿酔の心配無しと主張する彼の言をいれて、私たちは、ミルク割りスカッチをたて続けにあおった。うまい酒であった。

 黄色の長そでの腕をまくりあげた背の高い男が、ジュークボックスに金を入れながら「リクエストはないか」と呼びかける。口ひげをはやした男が、ジョニー赤を一本プレゼントする。隣のテーブルのやつは、ビールをくれた。「おまえ、よく来たな」と背中をたたいていくやつもいる。

 ゲットーで示される憎悪と愛情の二つを思いながら、ようやく酔のまわっていく自分を意識した。そんな私の目を、ジョーは笑顔で見返した。

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