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アメリカ紀行


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#4 知られざる活動/移民の人々



 いま、私の手元に一冊の分厚いつづりがある。「沖縄戦災救援復興活動記録」と題されるこのつづりは、在米沖縄救援連盟が、戦災の沖縄を救援する目的で発行した機関紙「救援ニュース」を一冊にまとめたものである。ガリ版刷りの質素な体裁だがめくっていくと、この新聞に要したであろう労苦と情熱、運動の真摯さが,読むものに感動を与えずにはおかない。

 きれいな印刷物を発行するだけの余裕など、そのころには全くなかったに違いない。太平洋戦争の期間、敵国民として例外的に強制収容所
(Concentration camp)に移住させられていた日系移民にとって、終戦は一つの混乱であったろうし、自分の生活を再建するだけでも精一杯だったろう。そういう中で作られた新聞だけに、尊い。

 自らの生活を犠牲にしてまで沖縄救援に向かわせたものは何であったろうか。政治的な、あるいは経済的な体制矛盾によって沖縄をはじき出され、沖縄はすでに捨て去った故郷だったのではないか。いずれにせよ私たちが忘れていた人々は、私たちを忘れてはいなかった。

 夜を徹して響いたであろう鉄筆の音や,インクの臭いを生々しく思い起こさせるこのつづりを見ていると、われ知らず頭が下がってくる。

 「救援ニュース」は、
19469月から512月まで、約1000部の発行部数を保ちつつ継続し、国内及びカナダ、中南米、その他の地方へ送られた。第一号の巻頭には次のような思いが記されている。

 この小さな「救援ニュース」の任務は、第一郷土沖縄の状態と、父母の膝下を離れて日本本土に避難しているいたいけな学童や、寄るべない幼老婦女子其他引揚者の窮状を海外同胞に知らせると共に、海外同胞の救援活動も郷土の人々にお伝えして、お互いに慰め励まし、心の通い合うための橋渡しの一助をつとめるにあります。そうして・・・少しでも沖縄の救援と復興に貢献できれば幸いだと思います。

 救援活動を提起し、組織した人々、幸地新政氏、仲村信義氏、比嘉隆氏について語ろう。

 太平洋戦争終結からわずか三ヶ月後、米政府の「原爆被害民情調査団」の一員として、幸地、仲村両氏は敗戦直後の焼け野原に立っていた。全国を行脚し、広島、長崎を目にしたとき、沖縄の戦災のすさまじさが想像されて、
GHQに訪問を申請したが拒否された。しかし、福岡で接した外地引き揚げ沖縄県人や疎開学童の状況は、救援活動が急務であることを実感させた。二人はすぐアメリカに帰り、救援活動に没頭する。

 ワシントンで海軍省から救援物資募集運動の許可と、輸送協力を取り付けたあと、ニューヨーク、シカゴ、デンバー、サンフランシスコ、ロサンゼルス、など、県人の多く住んでいる町をくまなく歩き、活動の支部づくりを始める。戦前にアメリカでたくわえた二人の預金は、二年間の活動費でおおかた消えてしまった。比嘉隆氏もこの頃から、実務を担当し、物資の荷造り、輸送に力を入れる。その当時、オルグのための報告書の中で、幸地、仲村両氏は次のように書いている。

 我々海外同胞は、今こそ郷土の民主的建設と戦災救助のために打って一丸となった力強い活動を始むべき秋だと思います。物資的救援輸送等の具体的方法については、当地(ロス)でも研究中でありますが皆様もそれぞれ研究を進め・・・衣類その他の金品を集める運動は直ちに開始するがよいと思います。(「戦後の日本における沖縄県人情勢報告」
4631日)

 在米県人の間には、運動によって生じる米国政府の圧力を恐れる人々もあり、初めのうちは意見の食い違いもあったのだが、多くの人たちはキャンプ帰りの苦しい生活の中で協力を惜しまなかった。かろうじて沖縄から帰米した二世のむすめさんたちの報告でおきなわの事情を掌握できるようになり、さらに、日系人以外からの援助も集まり始める。中南米の移民とも連絡がとれて、やがておびただしい物品がロサンゼルス救援本部に集結された。戦争以前から音信不通になっていた沖縄・南米間の通信も、四百通の便りがロス本部で取り次がれることによって回復する。沖縄県人のみならず、広くアメリカ人全体に呼びかけた。救援運動はまた、北米、中南米を含めた多くの人々によって進められるようになったわけだが、この間、幸地、仲村、比嘉氏の生活が多忙をきわめ、寝食を犠牲にするものであったろうことは、想像に難くない。

 活動に参加した数多くの人々が、結果としてどれだけの成果をあげ得たのかを知るための、具体的資料は手元にない。そしてまた、私はいまあえてそれを知ろうとも思わない。

 ただ、活動について謙虚に語る三人の話を聞いていて、私はある種の羞恥を覚えないわけにはいかなかった。これまでこの活動を知らずにいたことがわれわれのある「傾向」を示す証明のように思われたのである。

 私は、かつて移民について何かを考えるとき、いつでも個人のエピソードの次元でしか問題にしなかった。いわく何某は成功した。何某は金を持って帰って来た。彼らが国境を越えたとき、すでにわれわれの歴史とは無縁でしかないと考えていたのだ。しかし、これから後、移民ということについて、もう少し深く認識する必要があるだろうと思っている。



●1921年、県出身の屋部憲傳、又吉淳、幸地新政、宮城与徳を中心に「黎明会」(れいめいかい)を結成(沖縄大学緒方ゼミHP/2005年度世界のウチナーンチュ/宮城与徳第2章に記述>こちらからリンク
沖縄の移民 サンフランシスコ(琉球大学教育学部アメリカ教育プロジェクトHP/沖縄の移民 サンフランシスコ)に記述>こちらからリンク
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