アメリカ紀行
#1 旅立ち(沖縄タイムス1971年1月19日朝刊文芸欄)
人が、旅に出る決意をするとき、さまざまな動機を秘めているだろう。私の場合、一言で言えばそれは「脱出」の魅力と言うことが出来る。
未知の国と、そこに住む人々へのあこがれは、幼いころから、形を変えながら私をとらえていた。中学一年の国語の教科書で読んだ訳詩の感動を、今でも忘れることが出来ない。作者も題も、もう思い出せないが、記憶に残った断片は時として脳裏に蘇る。
海のあなたのはるけき国へ
いつも夢路の波まくら
こがれあこがれ渡るかな
海のあなたのはるけき国へ*1
私は帆船が好きであるが、白い帆一杯に風をはらんで船出していく船を想像しながら、夢見るような一時間を過ごしたその時以来のことである。もちろん当時のあこがれが、具体的な旅の希望につながるはずもなかった。 遠出をするまでもなく、十分に幸せであったし、日常は変化に富んだ快適な毎日であった。 あこがれは、夜明け前の霧のような形で、しかし、私の心を確実に満たしていった。
高校から大学受験期になるとよく世界地図を広げて、音楽のように響く地名をつぶやいては夢想にふける、ということがあった。 キリマンジャロ、ジブラルタル、アンダルシア、イスタンブール・・・。これ等の名前は、映画の一こまや小説の場面、あるいは密林から聞こえて来るドラム、街角に流れるギターのつまびきを、ひそやかに思わせた。 それでも、私の頭の中には、数学の公式や英単語がびっしり詰まっていたし、また、応援団という奇妙な遊び事に熱中したりして、それなりに充足した生活を送っていたのであり、旅立に思いを集中させることはあり得なかった。 ノスタルジアにさえ似たはるかな国への思慕は、順調な飛行に時たま訪れるエアー・ポケットの状態であったと言える。
海のかなたへのあこがれは、旅立つ契機を欠落させたままでいつかみずみずしさを失い乾いたものになっていたが、ある・突然に私の中で膨張し、吹き出してきた。 それは「脱出」の欲求と相互に強化し合いながら、私を突き動かしたのである。
大学を去らなければならなくなったとき、私は日常生活に恐怖を抱いた。日常の果てしない連続という考えは、一種の強迫観念にまで拡大し、それからの逃避を真剣に考慮する必要があった。一時的な「脱出」が、永続的な非日常に移行するなどという甘い気持ちを抱いたわけではではない。逃亡が生産的であるはずがないのだ。しかし、なんとかして飛び出ようと注意した。
そしてまた、この二、三年の私は、いささか情況にほんろうされ過ぎたという思いがあった。 情況の中で、自らを見失っているのではないかという疑問が、脳裏にこびりついていた。 何が自分で何がそうではないか。「自分自身」なるものは、いつでも変化しているもので変わらない確固とした核のようなものがあるとは信じないが、それでも自分の内部で、何かがぴったりと重なり合わない感覚とでも言える気分に陥っていて、憂鬱をふっ切らなければならぬと考えていた。一時的な「脱出」にそのことを賭けるつもりはもとよりない。単に、ある限定された地域から他に移転するだけで、自分自身に「回帰」することが果たされるわけではないだろう。だが、「何か」が捉めるかもしれないではないか。
「遠くへ行きたい」という歌があってかつてかなりの人々に共感をもって歌われたこと知っているけれども、私は彼等と情念を共有しているのだろうか。 苦笑するより手はないが、ともかく「脱出」は突然であっただけに強烈に私をとらえた。それゆえ衝動的な旅に出るまでに、計画らしいものはなにもなかった。
パスポートを手にして、いま機上にあっても、確かな予想は、一年ぐらいで帰って来ること、どうせ出るなら世界を一周することの二つだけである。 普通話される旅への期待は何もない。見聞を広める?冗談じゃない。ただ、旅にあると、非日常の面白さみたいなものがあるから、好奇心は人並みに持っている私は、旅先での出来事にのめり込んでいくかもしれないが、仮にそうだとしても、それは出発前の計画とは無関係なもので、まわりに起こる出来事に反応した結果なのだ。
旅先で、大発見をする幻想など、全く持ちあわせていない。 まして、壮大な比較文明論を展開する意図などさらにない。 なにしろ、世の中には、行かなくてもわかること、さも行かなければわからないことのようにふいちょうする人もいるが、己れの想像力の貧困を暴露するだけだろう。 たかが通りすがりの者に何が出来るだろうか。 私には、たとえば飯の食い方を見て、たちまち文化の根源に垂鉛を下ろそうとするたぐいの芸当は危険で見ていられない。 概して、短期間の旅人の文明論は、言わずもがなの事か、誤解の上に成立したものでしかないと考えている。 だから、「インドで考えたこと」の冒頭に書かれた堀田善衛*2の言葉などは、いまの私と最も遠いものだ。
もう間もなく「脱出」と「回帰」への、かすかな期待以外の何物も持たずに、非日常の生活を楽しむ通りすがりの旅人として、あこがれの国々を歩いているのだろう。
*1「海のあなたの」
上田敏(うえだびん 1874〜1916)によるテオドル・オオバネルの訳詩。第一訳詩集「海潮音」(1905年10月本郷書院刊)
*2堀田善衛(ほったよしえ 1918−1998)
>Wikipedia 堀田善衛