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アメリカ紀行


america05

#5 アメリカ断想



 どうも手に負えない、とときどき考える。アメリカとはいったい何だろうか。

 もちろん、日本とは何かという質問をあびせられたとしても、浮かんでくるのはばく然としたイメージの混合であって、たとえば学校で習った日本歴史のひとつながりだとか、世界地図の上で赤く染められてアジア大陸の東側にひっかかっている部分とか、学生たちの激しい政治行動などが、次々浮かんでは消えていくだけなのだが、それでもなんとなくイメージができているという感じがないわけではない。

 円錐の形をなしていて、少しぐらい縦に切っても断面はまるい円形である、とでもいった日本社会の構図が、私自身の生活体験と思想体験の中から出てくるだろう。そういう図形化された社会の像が、以前にはアメリカ社会に対してもあったような気がするけれども、アメリカに来て三ヶ月もたったら、逆にイメージはバラバラに分解してしまったように思われる。私は、いささか焦りをおぼえながら、想像力の及ぶ範囲でイメージの再構成を試みようとする。

 しかし、この社会の広がりは、私の概念操作の射程を超えて、はるかの地平にさらに拡大していき、自分の作る枠組みの中にとても入りきれるものではない。「こぼれゆくものへのいとおしみ」などという、まだ余裕を残した気持ちではなく、ナイアガラの落下してくる水を両手で受け止めようとしているような感じである。掌握しているつもりのものが、結局いつでも局部的な現象でしかないと自覚させられることは、私のように気短で、じりじりと忍耐強く対象に迫っていく性格を欠いている者には非常につらいことであって、いつも慢性的なフラストレーションにさいなまれているようだ。

 もう少し対象を限定して、「アメリカの大学」とか「アメリカ人の意識」などといっても、どうしても一般的な言葉で語れないもどかしさが残る。断言しようとすると、つかみそこねたものの大きさに愕然とさせられる。

 しかし、それでも勇ましい連中はいるもので、たとえば
小田実*1は「何でもみてやろう」で、アメリカ文明論とでも言うべきものを展開しているし、読んでいないから内容は知らないが、山崎正和*2の「このアメリカ」という題の、いかにも決定版のような印象を与える本もある。私には、小田のようなクソ度胸は持ち合わせていないから、「アメリカはこうである」などとはとても言えない。アメリカ社会のコンフォーミズムについて彼が力説しても、日本におけるコンフォーミズムの傾向もかなり強いじゃないかという気になってしまう。むしろ日本のほうがすべてに画一的ではないだろうか。日本人であるがゆえに、日本の微妙な違いをそれとして認識できるから、画一的に見えないだけではないのか、と考えるのだ。

 「だれでもはいれる
べ平連*3」が日本のあらゆる階層の人々を運動体の中に含み、思想や運動形態は種々多様であるとしても、アメリカの黒人運動に集結してくる人々の思想・行動の複雑さに比べたら、なんと画一的に見えることか。

 アメリカ社会のコンフォーミズムという言葉も、アメリカ社会のどうしようもない混沌の中から、企業合理性とか、産業合理性とでもいうものに収斂されていった部分、あるいはそれにからめ取られていった意識の部分についてあてはまるだけで、残されたアナーキーな領域は、いつでもカオスの状態としてあって、時いたれば常に噴出してくるものではないだろうか。だから、コンフォーミズムという表現では限定された局部以外はつかみ得ない、と私には思われる。

 もっとも、小田は(あるいはアメリカ文明論を試みる他の人々は)そのことを知ったうえで論を進めているかもしれないし、読むほうの私が勝手に「アメリカ人はみんな骨の髄までコンフォーミズムに侵されている」と解釈しただけなのかもしれない。そういう誤読の積み重ねの上に私のアメリカ像が出来上がっていて、いまそれが崩れ去ってしまったのだろうか。

 いま、開き直って、「要するにわけのわからんところがアメリカなんだ」と言えないこともないが、自ら思考を停止させてしまったような結論をつぶやいたところで、何の解決にもならないし、もっとみじめになるだけだ。このとてつもないボリュームの国を、総合的に掌握することをあきらめたとして許された方法は残っているだけだろうか。この国の構成要素をいろいろな仕方で分解したり、さまざまなカテゴリーにふるい分けたり、いわば遊びごとのようなことでもしながら、そのうち成熟してくるかもしれない何かに期待することにしようか。

 それにしても、これまで実に狭い所に生きていたものだと思われる。生活領域の広さにかかわらず、そこに生起する事は住んでいる人々にとって新鮮な事件であり、あるいはまた、隣村はすでに別世界で異質なものと考えている人々が生活している所は、地理的な事がらやその他の条件にかかわりなく、単一なものとしておさえ難いと言う人がいても驚かないが、それとは本質的に異なった多様な社会をアメリカに見出したと私は考えている。

 「
沖縄学*4」というものがあって、それが「学」として成立するものであるかどうかは全く知らないけれども、ともかくそういう言葉で社会の総体をわしづかみに認識出来そうなところで自分の性格形成期や初期の思想形成期を過ごしてきた私が、手持ちの尺度でははかりきれない社会にいるという不安定な気持ちで日を送っている。



1小田実(おだまこと1932年~2007年)
HPはこちらからリンク

2山崎正和(やまざきまさかず1934~)Wikipedia 山崎正和

3べ平連:ベトナムに平和を市民連合
Wikipedia べ平連

4沖縄学>Wikipedia 沖縄学
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